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花粉症になってしまった

大学生の時以外はほとんど杉の無いところに住んでいいたのに関東に再び来たとたんに花粉症になってしまった。

花粉症はつらい。至る所で鼻をかみたくなる。ティッシュが手放せない。鼻をかんでばかりいると鼻が赤くなる。鼻が赤くなるとほんとに酔ったおっさんになってしまう。

特に厳しいのが寝不足。夜中にくしゃみと鼻水で起きてしまう。再び眠れるときは良いが眠れないまま朝を迎えてしまうと大変なことになる。

日中に退屈な会議があると強烈な睡魔とエンカウントし、そして敗北してしまう。ゲームオーバー。

せっかくの春なのに外に出れないのがつらい。晴れた日は外に出て日光浴も兼ねて散歩したいのにくしゃみ、鼻水のことを考えると外に出られない。

それにしても大学の時は問題なかったのに去年単身赴任してからすぐに発症したのはなぜなんだろう。昨年1月に単身赴任が始まってから2月の終わりにはもうくしゃみばかりしていた。最初は風邪でも引いたのかと思ったら、4月終わりまでそのままだった。

年齢の問題なのか、花粉の量の問題なのだろうか。

確かに大学の頃(20年も前だ!)より、最近の方が花粉の量が増えているという話もある。今後もしばらくは花粉の供給量が多い状態のままらしい。やっぱり杉の無い地元に戻るしかなさそうな気がする。。。

 

電車で隣に乗った人

電車で隣に乗った人が美しかった。

髪はロングであるが、少しパーマがかかっている。ピンクの上品なコートを着ており、コートを着たまま座席に座っている。スターバックスのコーヒーを時々飲み、袋に入ったパンをほおばりながら、小気味よくMacに文字を打ち込んでいく。

自分は眠たくて、寝たり起きたり、うつらうつらしながら隣の人が熱心に文字を打ち込んでいくのを見ている。周りを意識しているのか、自分の書いている内容を人に見せたくないのかMacをテーブルの上から自分の膝の上に乗せたりして変わらないタイピングで文字を打ち込んでいる。

新幹線の狭い車内なのに非常に他の人がディスプレイを見るのを恐れているように見える。

1時間半ほど打ち込んだ後慣れた手つきでMacをシャットダウンさせ、片手でカバンに押し込む、コーヒーを惜しむかのように飲み干し、おもむろに立ち上がって、傘を左腕にかけ、カバンを悠然と抱えて、京都駅で降りていった。

 

「作家の収支」森博嗣(幻冬舎新書)

この本を説明するのは難しい。著者は否定しているが究極的には自慢と捉えられるが、お金を稼ぐ行為の詳細、また出版業界の印税などの仕組みを書いてあるので、これらの仕組みを知りたい人に役に立つだろう。

説明するのが難しいのは今まで同じような本が作家の立場書かれたものが無いからかもしれない。小説というのは芸術の側面があり、経済活動としての視点で語られることはおそらく小説家本人のポリシーからも表に出すのが難しかったと思われる。今回このような本が出てきたのは純粋に小説を稼ぐ行為として見なしている著者だからと判断できる。

小説というのは基本的に一人で書くものである。自分は会社に籍を置いて仕事をしているが、人と人との関係に悩むとき、あまり人と関わらず一人で仕事をしたいと思うとき、小説家という職業がとてもうらやましく思う。この自慢がとても自然に、水を吸収するように感心してしまう。

夢と睡眠

今日は2回夢を見た。

一度目は夜中見ている途中に起きてしまい、そのまま寝れなくなってしまった。二度目は、なんと白昼夢だった。これまでの人生で夢を見ることなどほとんど無かったのに何で今日は2度も見ることになったのだろうか・・・

 

夢その1

おばさんがうちの家族と一緒に寝るところ、布団で寝ようとしたけど眠れない。ふと横を見ると富士山と思われる山のかたちをした灰皿がある。山のすそのところが灰を入れるところのように見える。その山からは、へび花火のように何か軽そうな物体がもこもこ出ている。

 

あれはいったい何だったんだろうかと思ったタイミングでがばっと起きた。時計を見ると午前4時前、そのまま眠れず布団の中で悶々としていた・・・

今日は教育を受講していた。その1で書いた夢の後に眠れなかったせいで、睡眠不足となっていた。受講中に、うとうとしてしまい、そのときに夢を見たようだ。

 

夢その2

通勤電車の椅子の一部が切り取られ、移動していた。でも移動なんて言うほどの遅さじゃない。あれはテレポーテーションくらいに見える速さだった。椅子の一部は電車の中を高速でランダムに移動していた。

おそらく夢を見ていたのは1~2秒くらいのことだろうか。特に寝落ちすることもなく講師の話を聞きながら夢を見ていたようだ。こんなことはあるのだろうか?

 

あまり夢を見ない方だが、久しぶりに印象に残る夢を見たのでメモしてみた。

 

この年になり、うまく睡眠がとれなくなってしまった。

週末は夜の寝る時間が長い場合と短い場合が交互にやってくる。なんとか平準化しなくてはいけないのだが、うまく平準化できない。

週末は金曜日の夜があまり眠れず、土曜日の朝早くに起きてしまう。土曜日の日中は眠たいまま過ごすことになる。ふわふわしている感じだ。

土曜日は早く寝るのだが、日曜日はゆっくり寝ることができる。日曜日はなんとか快活に過ごすことができる。

平日は仕事の影響で帰る時間が遅くなり、そのせいで寝る時間が遅くなってしまう。翌日眠たいので、昼食後に5~10分寝ることでなんとか午後眠くならないようにしているが、昼食後の昼寝になれてしまうと、今度は午前中に眠気が襲ってくるようになってしまった。

なんでうまくいかないんだろう。いっそのこと会社を辞めてしまえばこんな苦労をしなくてすむのに!

ヘッドホンを購入

ワイヤレスのヘッドホンを購入。ヘッドホン自体も初めてで使い勝手を書いていきたい。

もともと、家の中ではiPhoneのスピーカーから音楽を聴く、外ではカナル型のイヤホン(2000円くらい)で一人暮らしを特に不満なく過ごしてきた。

ネットの記事でワイヤレスヘッドホンの記事を見て考え方が変わってしまった。

家の中では音楽を聴きながら料理を作っているが、ワイヤレスのヘッドホンだと、もっと高音質で、かつケーブルのことを考えずに料理を作れるのではないかと。

そういうことで電器屋でSonyのワイヤレスのヘッドホンを買ってしまった。お値段約7000円。

これがなかなか良い買い物をした。料理に関しては想定通り、さらには掃除機をかけるときにも有効であることに気づいてしまった。掃除機をかけるときは音がうるさいので普通は音楽をかけながらということはできず、掃除機の大きな音を聞きながら黙々と掃除機をかけていたが、ワイヤレスのヘッドホンを使うことでうるささを気にせず、ケーブルも気にせず、掃除機をかけることができるようになった。

音質に関しては特に可も無く不可もも無く、音質にこだわりが無ければ特に問題なし。ただし、自分の耳が大きいせいか、2~3時間の長時間ヘッドホンをしていると耳が痛くなる。(そんな長時間つけていると当たり前か・・・)

 

「面白南極料理人」西村淳(新潮文庫)

極寒の地とはどういうところなのか?

近くにスーパーもコンビニもないところ、1年間を南極で自分を含めて8人に料理を振る舞うためには、かなりの食料をストックする必要がある。忘れ物があったらどうしよう。

自分が同じ立場になったことを考えると、不安に陥り、恐怖感しか残らなくなってしまう。

研究や研究員のサポートで南極に行く人たちには本当に頭の下がる思いである。

南極で研究した成果が特許や実際の商品に役立っていることは想像に難くない。それが表だとすると、この本はその成果が生まれる裏面を書いたものである。

あらかじめ1年分の食料を買い込むとどうしても忘れ物がある。忘れたら1年間をその食材なしで料理を作らなくてはいけない。一番近くの昭和基地だって1000kmも離れたところにあり、そう簡単に取りに行くこともできない。難題を創意工夫で乗り切る。

もちろん料理以外でも生活していく中で過酷な場所に置かれていることもあり、8人の仲間がいさかいもなく過ごすことなんてあり得ない。文章では重たく書かないようにしているのが見えるが、かなりいろいろあったことが想像できる。

次々発生する問題をチームワークで難局(南極?)を乗り越えていく姿を見て感動してしまうのである。

 

水曜どうでしょうを見る

東京ウォーカー①②」をテレビで見る。どうでしょうのどこが良いのか問われてもすべてを説明するのは難しい。大泉洋にふりかかる多くの苦難、例えば今回は徹夜明けで企画を始めるが、東京内を「歩く」必要がある。徹夜明けに歩くのは相当大変ではあるのだが、大泉はさんざんぼやきながら快活に歩いている。苦難をぼやきに昇華させて面白さを運んでいるのである。

1998年といえば、もう19年も前、コンテンツとしてはだいぶ古い。東京を歩くにしても地図を購入するところから始めている。今ではスマホを開くだけで道順まで教えてくれる。

羽田空港についても第二ターミナルができる前の状態であり、今はバスターミナルの向こう側には駐車場があり、道路の向こう側なんていけなかったはずである。懐かしさを感じさせる風景であった。

その頃、自分はといえば、まだどうでしょうも知らず関東の大学生活を満喫していた。大学の授業はまじめに出ていたが上の空。家を出て、開放感をたっぷり味わっている頃であった。麻雀、バイト、サークルなどにうつつを抜かしすぎている頃である。水曜どうでしょうの面白さを知るのは大学を卒業し、就職で北海道に帰ってきた後だった。

今ではDVDをすべて買うほどになってしまったのである。